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2011年04月12日

「復興」とは、「幸せに気付ける力」を身につけることだと思いいたった件

東日本大震災に関して、自分たちなりに取り組んで参りました。

多くの方から、様々な意見を頂戴いたします。

本当にありがとうございます。


今回の東日本大震災で被災された方に、衷心よりお見舞い申し上げます。

実際、私・谷口の親戚の多くも、宮城県栗原市・気仙沼市にて被災いたしました。

幸いにも全員の無事が確認できております。

家族や友人、大切な人を亡くされた方、また思い出いっぱいの家、故郷を失ってしまった方のお気持ちは察するに余りあります。

震災から一ヶ月を経て、尚、不安は終息への兆しを見せません。

まさに未曾有の大災害により、当たり前の明日が、必ずしも約束されたものではないということを、全国民が思い知ったのではないでしょうか。


いま、日本人の価値観、人生観、幸福観、世界観が大きく転回しようとしております。

復興とは、きっと、元通りに戻すということではないのだろうと考えます。

元通りに戻すには、あまりにも喪ってしまったものが多過ぎる。


復興の意味を、「皆が幸せに生きていけるようにすること」と定義すれば、現状に対しての、新しい価値の創造が求められる局面に来ております。


神経症的な世の中では、自粛ムードからなかなか脱却できません。

自粛しても誰も喜ばない、経済をしっかり回せと言われても、なかなか行動に移せない。

慎み深い日本人。

楽しく生きることに罪悪感を抱いてしまう。

楽しくどころか、普通に生きることにさえ罪悪感を抱いている人もおられます。

私も、例外ではありません。


何故なのか?

私は、こう感じました。

今まで、当たり前のように、文明生活を享受してきた自分たち。

飽食といわれて久しい時代。

地球の裏側では、生まれてから死ぬまで被災している人が夥しい数います。

その事実を知ってはいても、出来ることはほんの僅かです。

出来ることをする人は、更に僅かです。


東日本大震災が起こり、身近に「それ」がやってきた。

「それ」が、自分ごとになった。

同じ国の同胞が被災している。

郷土が壊滅している。

放射能のことまで考えれば、もはや安全な場所など無いようにすら思える。

いままで通りに過ごすことなどできない。

自粛を促す罪悪感の根源は、「幸せだったのに、それに気付いていなかったこと」にあるのではないでしょうか。


「自粛する」

自粛すると、考えなくて済む。

自粛すると、責められなくて済む。

自粛すると、何かやったような気持ちになる。


ただ、自粛しても、何も変わらない。

誰も救われない。


自粛の意味を調べてみました。


「自分から進んで、行いや態度を慎むこと ―デジタル大辞泉(小学館)」


いま、自分から進んで、慎むべき「行い」や「態度」とは何なのでしょうか。

それが、本当に飲み会やイベントの開催ならば、きっちり、それを自粛するべきです。

それを止めたことで、本当は喜ばせられた人を、喜ばせられなくなることに、その日の為に一生懸命、準備してきた人が悲しむことに、なかなか思いはいたりません。

喜ぶということ自体が、不謹慎だというような風潮が蔓延しています。

自分たちも何か「痛い思い」をするべきだというようなムードが、鼻腔から脳髄を侵食してきます。

何のために自粛するのか、何を自粛するべきなのかを、考えてみる必要性を感じました。


私は、「こんな情勢だから、なんとなく無難にすべて自粛しておこう」という、自身の思考停止ムード、罪悪感を避け、やりすごす怠惰な生命をしっかり自粛するべきだと思いいたりました。



つまり、「自粛を自粛する」ということです。



自粛から、自律へ。


新しい価値の創造は、自身の生命を革新し続けて行く以外に成し得るものではないと感じています。


新潟青年協力隊 総隊長 谷口 博幸




posted by 新潟青年 at 01:31| 新潟 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 東日本大震災の件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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